宗教学徒のメチエ

宗教学を専攻する大学院生が日々の学びについて記します。

宗教は人を道徳的にするのか?

 肯定的なものであれ否定的なものであれ宗教に関するステレオタイプは巷間に溢れている。

 そうしたステレオタイプを単なる事実誤認として切り捨てるのではなく、それらが意味をなすようになった歴史的背景や、その社会的・政治的効果をも批判的に検討した論集 Stereotyping Religion: Critiquing Clichés (Bloomsbury Academic, 2017)『宗教のステレオタイプ化:クリシェを批判する』の内容を紹介していく。

 3回目となるこの記事で取り上げるのはジェニファー・イール(専門は古代宗教、新約聖書研究)*1による「宗教は人を道徳的にする Religion Makes People Moral」というステレオタイプに対する批判。

 「無宗教」を自称する人々が人口の7〜8割を占める日本では、信仰の有無と道徳意識の高低が結びつけられることはほとんどない。宗教の不在(とりわけ無神論)に対する否定的評価と一体となった「宗教は人を道徳的にする」というクリシェは、「無宗教」を「普通」と認識する大多数の日本人には理解しがたいものだろう。
 しかし、欧米社会、特にアメリカ合衆国では事情が異なる。ヨーロッパと比較して「宗教的」と形容されることも多いアメリカではあるが、特定の宗教に属さない「ナンズnones」と呼ばれる人々の数は増加し続ける*2一方で、無神論者に対する風当たりは依然として厳しい。大統領としての資質を有していたとしても投票したくない人物の属性としてワーストにランキングするのは無神論*3であり、状況によっては無神論者は強姦犯罪者よりも信頼されていないという調査結果*4もある。
 宗教と道徳の同一視は、宗教の不在を道徳の不在と結びつけ、無神論者を非道徳的な存在として他者化するレトリックとして機能している。こうした合衆国に固有のコンテクストを踏まえると、「宗教は人を道徳的にする」というクリシェに対する批判の意義が見えてくるだろう。

persona-sasaki.hatenablog.com

 本章では、霊長類学・進化認知学・宗教に関する科学的理論に依拠し「宗教は人を道徳的にする」というクリシェを批判したい。このクリシェの前提には、宗教抜きでは人間は道徳的指針を失うという考え方がある。宗教の欠如、特に無神論は道徳や倫理の欠如と同一視される。しかし「人間の心は空白であり神が常に監視してくれている」「人間の本性には根本的な欠陥があり悪に走りがちなので神は必要不可欠」といった前提は三つの点で間違っている。(1)ほとんどの宗教的実践・信念は道徳や倫理とは関係がない(2)神と結びつけるかどうかはさておき、人間は普遍的に善悪の判断ができるようになっている(3)神の名の下で人間は「善」も「悪」もなしうる。そもそも同一の宗教伝統の内部ですら善悪の判断基準には多様性があることから、宗教は、それ自体が道徳的(あるいは非道徳的)というわけではなく、善悪を問わず特定のふるまいや実践の促進や強化に関与しているだけだといえる。

道徳とは何か?宗教とは何か?

 「宗教は人を道徳的にする」というクリシェを論じるにあたっては、二つの困難がある。まず、道徳の定義が多様である。大雑把にいえば、他者との協力を促進する自己と他者に対する配慮が「道徳」や「倫理」と呼ばれるものに該当するだろうが、協力的でないことは必ずしも非道徳的なわけではない。他者と協力することが非倫理的とされる場合はいくらでもある。
 また、宗教そのものの定義も曖昧である。もっといえば、ほとんどの言語には「宗教religon」に該当する言葉がない。近代西洋において「宗教」とされるものは、ほとんどの文化においては他の領域に埋め込まれたり、生活全般に拡散している。「宗教」と「世俗」という二分法はここ数百年の間の発明に過ぎない。過度な単純化ではあるが、「宗教は人を道徳的にする」というクリシェを持ち出す人々は宗教と神(々に対する)信仰を同一視するので、本章では便宜上、宗教を「不可視の存在に関する何らかの実践・言説・信念の多様な複合体 the diverse constellation of practices, discourses, and beliefs that in some way pertain to invisible/nonobvious beings」と定義し議論を進めたい。

神々、倫理、認知の進化

 神と道徳の関係をめぐる議論は決して近代特有のものではない。人間中心の道徳を提唱したアリストテレスが論じた神聖なものthe divineは、神ではなく人間の最も高貴な特質を表していた。一方エピクレスは、神々は人間に関心がないという理由で、人間間の道徳を打ち立てることを推奨した。数世紀ののち、アウグスティヌスはのちの西洋キリスト教に受け継がれることになる「原罪」概念を生み出した。『創世記』3章に記されたアダムとイヴが犯した罪によって、すべての人間は罪深き状態で生まれるとされた。「原罪」概念は『ローマ人への手紙』5章12節の誤ったラテン語訳に依拠しているものの、権威を獲得することになる。アウグスティヌスによると、人間の本性には欠陥があり、神の恩寵による導きなしでは人間が善をなすことは不可能であるという。ジョン・カルヴァンも、人間はその本性上堕落しきっているので、善をなしているように見える人物であっても、実際にはそうではない、善をなしうるのは神だけ、と主張した。善人とは、神の善性を伝えているだけの、ただの(悪い)人間なのだ*5
 こうした何世紀にもわたる議論に対し、認知科学・霊長類学の知見は、人間は神の監視がなくても共感的、道徳的に行動することを明らかにしつつある。こうした研究によると、私たちには「善」や「道徳」と結びつけられる協力・同情・共感・親切・公平といった属性に向かう生来的な傾向があるという。さらに、協力や他者への共感、公平や平等への関心には明確な進化上の利点があるともいう。こうした傾向は、集団の結束を強化し、協力して困難な課題を達成し、飢饉時の食料の共有や集団内の弱者の保護などを促進する「向社会的prosocial」な振る舞いにつながる。一部の類人猿は、たとえ自らの利益にならなくても意図的に他者の利益に資する選択をすることも明らかになっている。また、象が群れのメンバーを気づかったり、犬同士が互いに助け合ったり、共通の目標のためにイルカが共同したりする例もある。
 さらに、道徳的判断は進化的適応であると主張する認知科学者もいる。神経科学者のマルコ・イアコボーニによると、他者の痛みを感じる私たちの能力は生まれつき神経に備わっているという。このミラーニューロンは、向社会的な振る舞いを構成する根本的な要素であり、人間同士の認知的・感情的つながりを生み出してもいる*6
 ここで注意すべきなのは、私は、世界中の人間が同一の道徳規範を共有していると言いたいわけでも、さまざまな道徳的期待のあいだの共通点が「自然natural」のものであると言いたいわけでもない、ということである。道徳規範や倫理体系の「自然さnaturalness」に訴えかける主張はすべからく疑わなければならない。というのも、自らの道徳規範が「自然」であると主張することで他者に対してもその規範が妥当であるかのように見せかける場合があるように、「自然」という概念は特定の権力構造の押し付けに活用されることがあまりにも多いからだ。「自然」に訴える議論は、特定の規範の創出や、特定の規範にもとづく現状維持を図る戦略の恣意性を隠蔽する。そうではなく、私が主張したいのは、倫理学者が言うところの「道徳」を構成する大部分の要素は、神々や宗教とは独立して存在し、人間以外の霊長類においても見出せるものである、ということである。

宗教性の二つのモード

 通文化的、通歴史的に言って、大多数の宗教的実践・言説は倫理や道徳とは関係がない。他人と交流するのと同じように不可視の存在(神々、精霊、先祖など)と人間が関わり合うのが宗教性の基本的なモードであると主張する研究者さえいる(とはいえ、不可視の存在は人間より知恵や力を持つものではあるが)。古今東西の人間の大多数は安泰な現世の生活を神々に祈願してきたわけで、死後の魂の救済や道徳的な審判を祈願してきたわけではない。神々そのものは往々にして道徳とは無関係であり、非道徳的な場合すらある(ギリシア神話のゼウス、スカンディナヴィア神話のロキ、ヒンドゥー教のクリシュナの度重なる悪事を想起されたい)。神々は、五穀豊穣・子孫繁栄・無病息災・競争の勝利(戦争、選挙、スーパーボウル)などをはじめとする、特別な力、保護、導き、内部情報を求めるさまざまな人間の活動を見守るものである。宗教学者のスタンレー・ストワースは、こうした基本的な宗教性を「日常的な社会的交換という宗教」と呼んでいる*7。すなわち、神々は人間のような心理や性格を持つと想定され、人間は神々との良好で互恵的な関係を保とうとするのだ。こうした相互作用は道徳的なレベルの問題ではなく、社会的動物として人間の実践的で常識的なノウハウを反映しているに過ぎない。食料を生産(し神々と共食)したり、(神々とも)話をしたり、(神々のために)髪を切ったり、こうしたありふれた実践が儀礼化され、不可視の存在に捧げられるのだ。
 人類学者のハーヴェー・ホワイトハウスは「モード」という観点から宗教性を考察した先駆的な研究者の一人である*8ホワイトハウスによれば宗教性のモードとは「その周辺に儀礼的行為や関連する宗教的概念が累積的に集まる傾向があるアトラクター・ポジション(惹きつける場所)」を指す*9。あるモードは、日常的な社会的交換に関する実践的な「どのようにしてhow-type」の知識(e.g. 適切な調理・会話・散髪の仕方)を伴う一方で、複雑な神学的命題、教義、宇宙・倫理・道徳・究極的真実に関する説明などの「なぜwhy-type」の知識を生み出すモードもある。ホワイトハウスが「アトラクター・ポジション」という概念を用いたのは、あらゆる儀礼が二つのモードに厳密に二分されるというよりも、ある儀礼は一方のモードにより引き寄せられる傾向があることを示すためである。記憶可能な身体的反応やハビトゥスを利用し促す実践・儀礼がある一方で、複雑な知性を必要とする(テクスト、隠喩、象徴、逆説を介した)活動を促す実践・儀礼(例えばキリスト教の三位一体論など)もある。
 それでは、宗教と道徳は同義ではない(し、往往にしてまったく関係ない場合もある)のにもかかわらず、なぜ重複するのだろうか?いかなる社会的条件のもとで人は神々に関する観念と道徳的態度を結びつけるのだろうか?キリスト教神学(は同時にキリスト教哲学でもあったのだが)から宇宙の聖なる秩序と倫理の問題を結びつける哲学的言説を受け継いだ近代西洋人は「宗教」と「道徳」が本質的に結びついていると誤解しがちである。ゆえに、「なぜwhy-type」型の宗教性における道徳と宗教の結びつきは、[キリスト教を背景とする]*10特殊な知的実践と知的関心の帰結に過ぎない。このことをよく示す例が、仏教の分類に関して近代西洋が発してきた「仏教は哲学なのか?宗教なのか?」という問いだ。この問いから透けて見えるのは、道徳と哲学は「一体」のものであるのと同時に道徳と宗教もまた「一体」であるという文化的な暗黙の前提である。 


神とともに悪事を行う

  宗教と道徳の関係は一筋縄ではいかない。単に「誰かにとってのテロリストは別の誰かにとっての自由の闘士」というだけでは済まされない問題だ。さまざまな事例が明らかにしているように、宗教的思想は、性的搾取・労働力の搾取・土地の強奪・帝国主義への抵抗・天然資源の支配権の主張といった他の利害関心を隠したり、そうした利害関心と密接に結びついたりもしている。我々が「宗教」と呼ぶものは、他の人間の活動から独立したものではないのだから、宗教的利害関心を他の利害関心から切り離すことは決してできない。神の名の下で「悪事」をはたらく人々は、宗教を「悪く」使っているわけではない。というのも、宗教は他の人間の活動と同じように、それ自体が道徳的なわけでもないし、逆に非道徳的なわけでもない。権力闘争、アイデンティティの形成、イデオロギーなどといった社会を作り上げる構成要素によって宗教もまた作り上げられているのだ。

大きな神々と監視

  宗教と道徳は必ずしも結びつかないが、神が下す正義に対する恐れは、人々を監視したり管理したりするのに活用されうるのもまた事実である。たとえば、『ペテロの黙示録』やダンテの『神曲』、ジョナサン・エドワーズの説教における地獄の描写は神による監視とセットになって、人びとの自己規律を促すフーコー的なパノプティコンとして作用しうる。 
 血縁にもとづく向社会的ふるまいが期待できない匿名性の高い大規模社会と、人びとのふるまいを管理、監視、強化し、直接的な血縁関係によっては成し遂げられない大規模な集団性を構築するような「大きな神々big gods」*11の存在の間には相関関係があるという主張もある*12。人々を監視・管理するのは大きな神々だけではない。神々による監視は、ベンチの男Mensch on the Bench、棚の妖精Elf on the Shelf、サンタクロースといった小さな神々small godsという形式をとる場合もある*13。とはいえ、国家による監視が遍在し精緻なものになると、大小の神々の監視は重要性を失っていく。サンタクロースなどのこどもの神々chlidren's godsを用いて親が子供に教え込もうとする自己規律は国家による監視と共犯関係にあると主張する研究者もいる。

結論

 以上見てきたように、宗教は必ずしも人を道徳的にするわけではないことを裏付ける三つの理由がある。 (1)神々や天罰に関する信念や実践とは独立して存在する善悪の基準が人間には備わっている(2)ほとんどの宗教的実践は道徳や倫理とは関係がない(3)道徳的に行動する人間が宗教と「善きこと」を結びつけるのとまったく同じように、神々や宗教の名の下で人々は「非道徳的」にも行動する。しかしながら、宗教は道徳的言説や道徳的振る舞いに看過できない二つの仕方で影響を与えうる。(1)道徳的振る舞いに関する複雑な教え(『道徳経』、『マタイによる福音書』、仏教の戒など)を作り上げることで、人間が生まれつき持つ向社会的な性向を拡大し豊かなものにする宗教性のモードもある。(2)神による監視を想起させることで、人々が自らの振る舞いを管理し道徳規範に従うよう促すことが可能になる。もちろん、こうした道徳規範は社会的に構築されるもので、場所や時代によって異なることは言うまでもない。

*1:https://ase.tufts.edu/religion/people/facultyEyl.htm

*2:A closer look at America’s rapidly growing religious ‘nones’ | Pew Research Center

*3:https://news.gallup.com/poll/155285/atheists-muslims-bias-presidential-candidates.aspx

*4:https://news.ubc.ca/2011/11/30/ubc-study-explores-distrust-of-atheists-by-believers/

*5:いわゆる全的堕落。

*6:原注4:もちろん、人間は常に向社会的に行動するわけではないし、絶え間なく他者に共感するわけでもない。イアコボーニの研究は、他者の痛みを感じるミラーニューロンの反射作用に関するものではあるが、「我われ」と「よそ者」というカテゴリーがいかに社会的に構築され、「よそ者」の痛みが無意味なものにされるかについては何も語ってくれない。他者の苦痛に対する人間の反応をめぐる意義深い今日的な論考としてはスーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』https://www.msz.co.jp/book/detail/07047.htmlが参考になる。

*7:Religion of Plant and Animal Offerings Versus the Religion of Meanings, Essences, and Textual Mysteries - Oxford Scholarship

*8:Modes of Religiosity: A Cognitive Theory of Religious Transmission - 9780759106147

*9:原注8:ホワイトハウスは、賛同者と反対者がますます増え続けている宗教認知科学Cognitive Science of Religionと呼ばれる宗教研究のアプローチの主導者の一人。宗教認知科学に対する手厳しい批判については、The Sacred Is the Profane - Paperback - William Arnal, Russell T. McCutcheon - Oxford University Press所収の"Will Your Cognitive Anchor Hold in the Storms of Culture?"を参照せよ。

*10:[]内はブログ執筆者の補筆。

*11:日本語で「お天道様が見ている」というときの「天道」がこれに近い。なお天道思想については神田千里『戦国と宗教』(岩波新書、2016年)戦国と宗教 - 岩波書店が参考になる。

*12:Norenzayan, A.: Big Gods: How Religion Transformed Cooperation and Conflict (Paperback and eBook) | Princeton University Press

*13:たとえば「良い子にしてたか」とこどもに恐怖心を植え付け、親のしつけに活用される「なまはげ」もその一例だろう。

宗教は本質的に暴力的なのか?

 肯定的なものであれ否定的なものであれ宗教に関するステレオタイプは巷間に溢れている。

 そうしたステレオタイプを単なる事実誤認として切り捨てるのではなく、それらが意味をなすようになった歴史的背景や、その社会的・政治的効果をも批判的に検討した論集 Stereotyping Religion: Critiquing Clichés (Bloomsbury Academic, 2017)『宗教のステレオタイプ化:クリシェを批判する』の内容を紹介していく。

 2回目となるこの記事で取り上げるのはマット・シーディー(専門は批判理論・世俗主義論)による「宗教は本質的に暴力的である」というステレオタイプに対する批判。

 「宗教は本質的に暴力的」という主張とは真っ向から対立する「宗教は本来は平和的」という反論も、人々の信念や行為の原因として、各時代・地域に特有の政治的・経済的・社会的文脈からは切り離せないはずの「宗教」をあたかも独立した要素であるかのように本質主義的に超歴史化している点で同根である、と著者は鋭く指摘する。また、特にイスラーム全体やその一部(いわゆる「過激派」)と暴力を結びつける語りは、政教分離と国家による暴力の独占を自明視する世俗主義を理想化しつつ、政教未分離とされるイスラームを「非合理的」なものとして他者化し、世俗国家による暴力的介入を「合理的な」ものとして正当化するレトリックとしても機能しているという。諸宗教の聖典に暴力的な記述があることは否定できないが、テクストの内容がそのまま人々の行為に反映されると結論づけるのは早計で、実際には時代・地域によって多様な解釈が生み出されていることに目を向けるべき、と著者は結論づけている。

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 「宗教は本質的に暴力的である」というステレオタイプと、それに対する「宗教(あるいは少なくともほとんどの宗教)は本当は平和的である」という反論の双方に共通するのは、「宗教とは、それを通して見ることで特定の人々についての理解を可能にするレンズのようなものであり、文化、民族、政治などとは異なるアイデンティティの源である」という前提である。
 本章では「宗教は本質的に暴力的である」というステレオタイプの歴史を概観する。過去のほとんどの学者は合理性にもとづく優劣を諸宗教に見出していた。「すべての宗教は本質的に暴力的である」という主張は比較的新しく、新無神論者と呼ばれる人々が発信している。つづいて、主張内容は正反対ではあるが実は同様の宗教観とロジックに依拠する「宗教は本質的に平和的である」というクリシェについても簡単に検討する。最後に取り上げるのは、過去の見解を修正し、初期の宗教研究と同様に「ある宗教は他の宗教に対してより合理的で文明的である」と主張するようになった無神論者の事例である。本章で展開される議論の前提にあるのは、「宗教」とは決定的な意味を持たない不安定なカテゴリーであるという認識である。「宗教が意味するものは何か?What religion means?」「宗教とは何なのか?What is religion?」といった[「宗教」を固定的な意味内容をもつカテゴリーとして当然視する]*1問いから離れ、さまざまな歴史的・社会的状況において「宗教というカテゴリーはいかなる機能を果たすのかHow do the term religion function?」「宗教は何をしているのか?What does religion do?」といった問いに目を向けること、それが私の究極的な問題意識である。

歴史的背景

 「宗教は本質的に暴力的である」というクリシェを分析するには、宗教と世俗という二分法に着目する必要がある。というのも、宗教は政治や経済といった世俗的な領域とは区別されるという前提抜きではこのクリシェは意味をなさないからである。宗教改革プロテスタントの登場にともない近代的な宗教概念が形成され、政教分離をはじめとする法的概念や「世俗」法のもとで特定の実践(e.g. ヴェールや一夫多妻制)の合法性に関する論争が生み出された過程の解明については、タラル・アサド*2、ティモシー・フィッツジェラルド*3、サバ・マフムード*4らが特筆すべき成果を残してきた。こうした批判的研究から導かれる重要なポイントが少なくとも二つある。第一のポイントは、「宗教」や「世俗」は、あらゆる文化・時代・場所に共通する一貫・安定したひとまとまりの要素には還元不可能であるということである。たとえば、宗教を「私的で、自発的で、個人的で、聖典に依拠した、心の中で信じられる*5もの」と捉える[西洋で]一般的な宗教観は、プロテスタントの強い影響のもとで形成され、その後の植民地主義の拡大とともに世界中に押し付けられた政教分離的な政治体制を反映している。以上から導かれる第二のポイントは、従来「宗教」と呼ばれたきたものの分析は、「宗教」概念の形成過程とともに、そうした概念が特定の目的のために利用されてきた経緯を考慮しなければならない、ということである。ほとんどの場合、「正しい宗教」あるいは「好ましい宗教」とされるものは、その社会の支配集団の選好と文化的背景、そして特定の状況下で彼らが維持したがる社会規範に対応している。現代においては、世俗的自由主義secular liberalismがあらゆる国家、文化、宗教を比較する基準になりやすいので、特定の集団・歴史・イデオロギーを包摂・排除するために世俗的自由主義が絶え間なく作り出す言説を我々は注視しなければならない。
 近頃は「宗教は本質的に暴力的である」というクリシェを基本的には避けるようになった欧米の宗教研究には、特定の宗教をより暴力的であると論じてきた長い歴史がある。20世紀の中頃まで、宗教は人種や民族、文化や慣習、国家、帝国、文明といったカテゴリーとともに論じられることが多かった。実はつい最近まで、キリスト教以外の集団のみならず、英米におけるカトリックに対するプロテスタントステレオタイプに見られるように、キリスト教内部の特定の集団についても人種的に劣っていると表象することは珍しいことではなかった。今日の欧米では特定の集団・民族(特にイスラーム教徒)の行動を特徴づけるさいに宗教的信念が強調されるが、そこから人種概念が取り除かれがちのは、世俗的自由主義の基本理念が寛容・平等だからだ。こうした寛容や平等の重視は(人種、ジェンダー、セックスなどに関する)構造的差別や、植民地主義帝国主義新自由主義的な資本主義が世界各地の社会的対立で果たす役割を見過ごしてしまう傾向がある。あらゆる「宗教」についての語りは、他のアイデンティティー[人種、ジェンダー、セックスなど]と分かち難く絡みついている、ということに気をつけなければならない。 
 16世紀以降、植民地の拡大にともない他者との接触が増加し、各聖典の翻訳が進んだことを背景に、数多くの西洋の研究者が合理性にもとづいて宗教を分類し「世界の諸宗教」の本質と等級について論じる研究分野が登場した*6。こうした潮流の背後にあるのは、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』(1979年)で指摘したヨーロッパ・キリスト教文明の「他者」として「東洋」を表象してきた西洋の長い歴史である。ザカリー・ロックマンが『競合する中東観:オリエンタリズムの歴史と政治』(未邦訳、2004年)*7で論じているように、オリエンタリズムが依拠していたのは、世界は競合する諸文明から成り立つという見方だった。文献学(今でいう比較言語学)から発生したオリエンタリズムには、各文明について知るべきすべてのことは、文明の本質を捉えているとされた各言語で記された聖なる書物に見いだせるという前提があった。イスラームを本質的に暴力的な宗教とみなした初期のオリエンタリストたちを描き出したのが、増澤知子世界宗教の発明』(2005年=2015年)*8である。その一人であるオットー・フライデラーはこう述べている。

「[イスラームの]根本的教義は神の単一性である。しかし、神の性質に関して言えば、マホメットに深い省察があるわけではない。彼は神をオリエントの専制君主に似た超俗的な全能の統治者と考えた。神は、怒ると怖いが慈悲深くもあり、この慈悲心において裁きを猶予する。賞罰に関して気まぐれで、想像を絶する圧倒的な意志を持ち、人間に盲目的態度を求める」*9

 ここから見て取れるのは「[西洋人に対する]東洋人の遅れを示す最も重要な証拠であるクルアーンを読めばイスラームムスリムを理解できる」という前提である。この前提は、自由な聖書解釈を許容したプロテスタンティズムこそが合理的で世俗的な統治の形態を生み出し、最終的には寛容を広め、唯一の正統な政治的秩序・法体系として世俗的権威を認めることにつながったという評価と結びついている。問題の核心は、信教の自由が悪いということではなく、プロテスタント的な宗教のあり方が特権化されることで他の諸宗教の[理想的な宗教とされるプロテスタントと比較したときの]欠点ばかりが誇張されてしまい、その結果、「彼ら」こそが「われわれ」のゲームのルール[プロテスタントに由来する世俗自由主義的な政治体制]に従うべきという期待を生み出してしまったことである。こうして「ある宗教は本質的に暴力的である」という主張は、非合理的ゆえに介入すべき対象として特定の集団を特徴づける一方で、人種主義的なヒエラルキーの維持や土地・資源をめぐる対立といった物質的な利害関心を覆い隠す機能がある。
 特定の宗教を暴力的とみなす見方に比べればそれほど一般的ではない「すべての宗教は本来的に暴力的である」というステレオタイプは、「組織宗教organized religion」に対する敵意と神々や聖典に対する信仰の拒否を訴える無神論者に典型的なものだ。無神論者全員がこうした主張をするわけではないが、宗教に取って代わる正しい世界観として無神論を支持するこのクリシェが一部の無神論者に利益をもたらしていることは想像に難くない。特定の宗教から宗教全般を非合理的・暴力的なものとして批判するクリシェへの転換の背後には、従来は科学や世俗的倫理のものとされてきた領域(e.g. 進化論、性的規範、中絶など)において影響力を強めつつ宗教的思想に対する危機感がある。宗教的思想が廃絶されるか少なくとも公的・政治的領域で影響力をもたない程度に弱まらなければ、公正で合理的な世界は実現できない、というのが新無神論者の主張である。
  その一例が、インド出身のイギリス人作家サルマン・ラシュディ*10が2007年に記したエッセイである。彼はその中で以下のように述べている。

 これまで論じてきたように、宗教戦争の真の姿とは、宗教がその「影響圏」のもとにあるごく普通の市民に向けて仕掛ける戦争のことである。プロ・チョイス派*11の医師を攻撃するアメリカのキリスト教原理主義者、国内のユダヤ教徒マイノリティを攻撃するイランの宗教指導者、アフガニスタンの人々を攻撃するタリバン、恐怖に震え上がるボンベイイスラーム教徒を攻撃するヒンドゥー教原理主義者。信心深い人々による無防備な人々に対する戦争である。

 一見ラシュディは、各地域で対立を引き起こす数多くの「宗教的」アクターの存在を列挙することでバランスのとれた視点を提供しているように思えるが、そうした対立の背後には、民族対立や集団間の緊張を激化させる政治的・経済的勢力といった複数の原因があり、宗教的アイデンティティはその一つでしかないことを説明しそこねている。例えば、アフガン戦争(1979-89)中にオサマ・ビン・ラディンを含むアフガニスタンのムジャヒディーンに武器や訓練を提供し、のちのタリバン政府とアル・カイーダの勃興に手を貸すことになった合衆国の役割についてラシュディは言及していない。他の要素に対して恣意的に宗教的要素を目立たせることで、戦争は複数の要素が複雑に絡み合った結果ではなく、迷信的な考えの帰結であるという印象を読者は受けるだろう。こうした論理展開において、(宗教という)時代遅れの見方を治療する最良の解決策として称揚される「世俗ー倫理的立場secular-ethical position」は、いわゆる世俗国家が行使する暴力を正当化している。

「宗教は本質的に平和的である」というステレオタイプ

 「真の」宗教と人民寺院をはじめとする暴力的な集団を区別するために「カルト」という用語を用いる例はあるものの、現代の宗教研究者は宗教全般が暴力的であると主張することはない。その背後にあるのは、もう一つのプロテスタント的な宗教観、すなわち「すべての宗教の根本にあるのは寛容の精神と個人的・精神的な意味の探究である」という見方である。その一例が、カレン・アームストロングが『イスラームの歴史』(原著:2002年、翻訳:2017年)*12で述べた以下の一節だ。

 そもそも霊的探究は内面を探る旅であり、魂の遍歴であって権力をめぐる政治ドラマではない。集中すべきは典礼・教義・瞑想による修練・心の探索であって、目先の利害の衝突に心を奪われるべきではない。(...)この種の権力闘争は宗教が本来関わるべきものではなく、霊的生活から逸脱した無価値なものであ[る]。*13

 こうした宗教観の前提にあるは、混沌とした現実政治に関わると宗教の「真の」意味が失われてしまう、という味方がある。こうした「宗教は本質的に平和的である」というステレオタイプを裏づけるのは、聖典の残酷な描写や暴力的な記述を(聖典が執筆された)同時の文脈では適当だったと説明したり、そうした描写や記述には正しく解釈すれば浮かび上がってくる深い比喩的な意味があると説明したりする近代の自由主義的な聖典解釈である。「宗教=暴力的」論者と同様に「宗教=平和的」論者もまた、政治・経済・文化といった領域から宗教を切り離し、「宗教的」とされる人々の信念・実践・動機を理解する鍵として、自らにとって都合の良い聖典解釈を打ち出す傾向があるのだ。

大衆文化におけるステレオタイプの例 

 2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、リチャード・ドーキンス、サム・ハリス、クリストファー・ヒッチェンズ、アヤーン・ヒルシ・アリなどが宗教の廃絶を訴える著作を相次いで出版した。一般に「新無神論者」と呼ばれる彼らは、無神論の推奨と容赦のない宗教(特にキリスト教イスラーム)批判で国際的に知られるようになった。互いの著作を引用・推奨し合い親交もある彼らではあるが、実はその宗教観は千差万別で、その批判も一様ではない。たとえば仏教についてハリスは「自己という幻想」から人々を解き放つ「東洋の叡智」と賞賛し西洋には匹敵するものがないとまで述べているのに対し、ヒッチェンズは仏教が暴力的な宗教であることの証左に第二次世界大戦中の日本で広がった「皇道仏教」*14をあげ「東洋の宗教」も「西洋の宗教」と大差ないとしている。彼らの主張に共通するのは、(保守的)キリスト教が文化に及ぼす影響の阻止、現代の世俗的・自由主義的な価値観に対する最大の脅威であるイスラームに対する批判である。
 新無神論者の主張に対しては、彼らが描く宗教像は聖典の保守的・逐語的な解釈ばかりに依拠しており、各宗教の多数派を構成する穏健な集団を見落としているという批判が寄せられている。これに応じたハリスは見解を修正しグローバルに広がるイスラーム教の「同心円」モデルを提唱している。Maajid Nawazとの共著『イスラーム教と寛容の未来:対話』(2015年, 未邦訳)において彼は

「(同心円の中心には)イスラーム国、アル・カイーダ、アル・シャバーブ*15ボコ・ハラムといった組織がある。メンバーは異教徒と背教者の抹殺を心待ちにしている。こうした人々をわれわれは「ジハード主義者jihadists」と普通は呼ぶ。その次に広がるのは、ジハード主義者に比べてより政治的ではあるが、殺したり殺されたりはしたくないと考えるイスラーム主義者Islamistsの大きな輪がある。それを取り巻くのが、自分の手を汚すつもりはないがジハードやイスラーム主義をおそらく支援するさらに大きな輪だ。同心円の外周には、そうであってほしいと思うが、いわゆる穏健派と呼ばれる、より近代的な価値観に沿って暮らす人々がいる。彼らは完全に世俗的とは言えないかもしれないが、イスラーム国などの組織が自らの信仰を代表しているとは考えていない。そして、単に声を上げていない真に世俗的なムスリムもおそらく数百万人はいるだろう」

 と述べているが、この同心円モデルもまた、政治的・経済的・文化的要素を軽視あるいは無視し「宗教は人々の信念や実践を左右するものである」という前提を踏襲している。また、「真に世俗的なムスリム」が数百万人は存在するという記述は自分勝手な希望的観測でしかなく、ハリスが称揚する世俗主義の力とその普遍的な魅力をほのめかしてもいる。同様の議論は、ムスリムとして育てられながらも批判の矛先をイスラーム教に向ける新無神論者の中でも独特なアヤーン・ヒルシ・アリの著作にも見られる。
 ソマリアサウジアラビアエチオピア、ケニヤで敬虔なムスリムとして育てられたヒルシ・アリは23歳でオランダに亡命、大学で哲学を学び国政議員も務めた。ともにイスラーム教を批判したドキュメンタリー『服従』を監督したテオ・ヴァン・ゴッホが暗殺されると彼女は合衆国に移住し、女性器切除を含む自らの若き日々の経験を綴った『閉じ込められた処女』(未邦訳、2008年)、イスラームからの決別を記した『もう、服従しない ー イスラームに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した』(2008年=2008年)*16、自らの合衆国への移住について語り、(のちに彼女はこの主張を取り下げたが)穏健派ムスリムに対してキリスト教への改宗を力説した『ノマド』(未邦訳、2011年)を相次いで出版した。近著の『異端:今なぜイスラーム教に改革が必要なのか』(未邦訳、2015年)で彼女は以下のように述べている。

「急進的なイスラーム主義者の暴力的行為はイスラームの理念とは異なる、というイスラーム教指導者が今まで力説してきた主張は馬鹿馬鹿しい。そうではなく、私たちが認識すべきなのは、イスラーム主義者の暴力は、イスラームそのもの、クルアーンそのもの、ハディースに収められた預言者ムハンマドの人生と教えそのものに埋め込まれている政治的イデオロギーから生み出されているという事実である」

 この論理展開からは、本章が批判してきた「宗教は聖典が外的に表出したものとしてもっともよく理解できる」「宗教的アイデンティティを巻き込んだ対立は、戦争や貧困、民族対立といった物質的要因ではなく、まず何よりも人々の信念によって引き起こされるものである」といったステレオタイプが見て取れる。また、彼女は「急進的なイスラーム主義者」の暴力的行為と「イスラームの理念」を区別するのは間違っていると主張し「宗教は本質的に平和的」というクリシェを排してはいるものの、結局のところ、異なる歴史的・社会的文脈におけるイスラームの展開や利用のされ方に着目せず、「イスラームとは〇〇なものである」という本質主義的なイスラーム教像を再生産してしまっている。
 ハリスと同様、ヒルシ・アリもまたムスリムを、(1)メディナに移住したムハンマドが行った戦闘行為を現代においても再現しようとする「メディナムスリム」、(2)ムスリムの大多数を占め暴力は行使しないものの「メディナムスリム」に好感を寄せる「メッカ・ムスリム」、(3)近代的価値観とイスラーム的価値観の間で「認知的不協和」に陥る「メッカ・ムスリム」のなかでも、西洋近代をはっきりと拒絶する「メディナムスリム」が打ち出す妥協の余地のないイスラーム的信条を遵守する単調な繰り返しからは距離を置く「修正ムスリム」の三種類に区別しているが、彼女の議論のターゲットは、イスラームからは離れたがその未来を案じ続けている人々や彼女の基準に照らして十分に近代に適合した「改革的なムスリム」にある。
 ハリスの同心円モデルと同様にヒルシ・アリの分類もまた、実際は「自由主義的な原則」を基準としたときの特定の信念・思想の批判でありながら複雑な事態を説明する「中立的」な議論を装っている点で、レトリカルな戦略といえる。このレトリカルなずらしは、紛争のさなかにある特定集団の「信念」を強調し、それを非合理的なものと特徴づける一方で文化的・政治的・経済的要因が紛争に与える影響を過小評価し、目指すべき理想として世俗的自由主義を称揚するかたわらで、その名のもとで行われる「非合理的」な集団に対する暴力を正当化している

結論

 私は「宗教と暴力は関係ない」と主張したいわけではない。実態は逆で、多くの宗教思想には暴力的な内容が含まれるし、暴力の正当化にも用いられうる古代の聖典から権威を引き出してもいる。最後に強調したいのは、宗教的アイデンティティに関しては、[聖典聖典に準じるテクスト群、過去の]解釈をめぐる争いこそが全てであり、その争いはローカルな文脈や歴史的背景のもとで無数に異なるかたちで形づくられるということだ。宗教的アイデンティティは決して「宗教的」なだけでなく、同時に国家に関わるものでもあり、民族的、政治的、経済的、文化的でもある。「宗教」とは結局のところ特定の地域・時代のなかで何が「宗教」とされるのかに依存するカテゴリーなのだ。さまざまな地域・時代における宗教的思想・アイデンティティの実態や活用に注意を向けることで、信念の体系として宗教を捉えるよりも、宗教が暴力の発生や抑制、暴力に対する抵抗において果たす役割についてより多くのことがわかるはずだ。

*1:[]はブログ執筆者の補筆。以下同様。

*2:宗教の系譜 - 岩波書店(1993=2004)、世俗の形成:みすず書房(2003=2006)

*3:『宗教学のイデオロギー』(未邦訳、2003年) The Ideology of Religious Studies - Timothy Fitzgerald - Oxford University Press、『文明と野蛮に関する言説:宗教と関連概念の歴史を批判する』(未邦訳、2007年) Discourse on Civility and Barbarity - Hardback - Timothy Fitzgerald - Oxford University Press 

*4:『敬虔の政治:イスラーム復興とフェミニストの主体』(未邦訳、2005年) Mahmood, S.: Politics of Piety: The Islamic Revival and the Feminist Subject (Paperback and eBook) | Princeton University Pressについては『くにたち人類学』8号に掲載された谷憲一の書評(http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/25718)が大変参考になる。『世俗の時代における宗教的差異:マイノリティの報告』(未邦訳、2015年) Mahmood, S.: Religious Difference in a Secular Age: A Minority Report (Hardcover, Paperback and eBook) | Princeton University Press

*5:原文はbelieved。日本語の「信仰」は「宗教」と互換的に用いられる場合が多くわかりにくいが、宗教学では内面的な信仰を意味するbeliefと外面的な実践を意味するpracticeを対比的に用いるので、この場合の"believed"は内面的な信仰を含意する。

*6:原注3:「このトレンドは、今日の宗教学のほとんどの入門書が世界宗教パラダイム(world religions paradigm: WRP)を踏襲していることからわかるように、今もなお続いている。WRPとは、各聖典の抜粋や、マルティン・ルターやガンディーといった各宗教における中心人物によって一般に知られるようになった要素にもとづき、およそ8個から10個の「諸宗教」の共通点を比較するアプローチである」

*7:Contending visions middle east history and politics orientalism 2nd edition | Middle East history | Cambridge University Press

*8:増澤知子『世界宗教の発明』 - みすず書房

*9:増澤知子世界宗教の発明』秋山淑子・中村圭志訳(みすず書房、2015年), pp. 279-280.

*10:日本語訳者が何者かによって殺害された『悪魔の詩』の作者として知られる。

*11:母体が中絶を選択choiceする権利を認める中絶権利擁護派という意味。これに対して中絶反対派は胎児の生命lifeを尊重するということからプロ・ライフ派と呼ばれる。

*12:イスラームの歴史|新書|中央公論新社

*13:同上, p. v.

*14:たとえば浄土真宗オピニオンリーダーだった暁烏敏(1877-1954)は天皇天照大神阿弥陀仏を同一視するロジックを作り出し、天皇の示す道=皇道と神仏の道を一体化し、皇道としての戦争への真宗の協力を正当化した。碧海寿広『入門 近代仏教思想』(ちくま新書, 2016年), p. 257-58.

*15:ソマリアを中心にアフリカ東部で活動するイスラーム「過激派」組織。

*16:『もう、服従しない イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した』 - エクスナレッジ書籍編集部

宗教は信念体系なのか?

 肯定的なものであれ否定的なものであれ宗教に関するステレオタイプは巷間に溢れている。

 そうしたステレオタイプを単なる事実誤認として切り捨てるのではなく、それらが意味をなすようになった歴史的背景や、その社会的・政治的効果をも批判的に検討した論集 Stereotyping Religion: Critiquing Clichés (Bloomsbury Academic, 2017)『宗教のステレオタイプ化:クリシェを批判する』の内容を紹介していく。

 初回となるこの記事で取り上げるのはシーン・マクラウド(専門はアメリカ宗教)による「宗教は信念体系である」というステレオタイプに対する批判。首尾一貫した信念体系として宗教をとらえる見方では、多くのアメリカ人のハイブリッドな宗教実践は見落とされてしまうと警鐘を鳴らす。
persona-sasaki.hatenablog.com

 私たちの多くは、宗教といえば信念(belief)に関するものであり、宗教的なものであれそうでないものであれ、個人の行為の基礎には信念があると思い込んでいる。たとえば、テロの背景には宗教的信仰(religious belief)があると主張する人もいれば、テロ行為は「真の」信仰には反するのだから宗教的とは言えないと反論する人もいる。本章の目的は、いわゆる宗教と信念が無関係であると主張することではないし、「信念体系」と呼べる教義が一部の宗教にあることを否定することでもない。そうではなく、「宗教とは信念に関するものである」「宗教は信念体系である」といった見方がいかにも心地よい自明の前提とされる理由を考察することである。


「信念」という概念がはらむ問題

 「宗教とは信念に関するものである」という宗教観は宗教改革のさなかに登場した。この見方は、「無意味で異教の名残をとどめ純粋ではない」(とプロテスタントが批判した)カトリック儀礼ritualから自分たちを区別するために純粋な信仰に訴えたプロテスタントにとって魅力的だった。しかし、この宗教観は、多くの宗教において信仰より儀礼・行為が重視されていること(ユダヤ教の一部、カトリック、禅など)を見落としている。

 また、「人間は自律的で合理的、意識的で首尾一貫した存在である」というイメージは多くの人にとって違和感のないものだろうが、個人の言動は首尾一貫しているわけではなく、場所・時間・社会集団に大きく規定されていることを研究は明らかにしている。社会学者のアン・スウィドラー*1の『愛の語り方:その文化との関係(未邦訳)』によると、インタビューの回答者は、質問のされ方によって、愛について語る際に二つの対照的な語彙を用いたという。「愛とは何か」と聞かれた回答者は自由で自発的な選択として愛を語ったのに対し、「なぜ結婚し続けなければならないのか」「死にゆく最愛の人を看取るべきか」という質問に対しては、責任や義務として愛を語った。スウィドラーは「ほとんどの人は、単一で統一した態度や信念を持っているわけではないのだから、文化研究にとってそのような統一的な信念を探ろうとするのは間違っていた」と述べている。

 このように、人間はいつでも論理的に一貫した考えや思想を持つと想定している点で「信念」概念には問題がある。それだけではなく、意識的な思考ばかりに着目する「信念」概念は、必ずしも意識しないかたちで「宗教」が身体や情動に働きかけるさまを見落としてしまっている。信念ではなく身体化された傾向(embodied disposition)と宗教との関わりの方が見て取りやすいだろう。身体化された傾向とは、習慣の力、あるいは人類学者のジェシカ・ジョンソンの言葉を借りれば、行為・感情を引き起こす「原理原則にとらわれない確信convictions unbounded by doctrine」をさす。言い換えれば、過去が個人を作り上げるということだ。身体化された傾向が機能することで、個人は「宗教的」な考えや実践に惹きつけられたり逆にそれらから離れたりするが、これは「信念」概念が示すモデルよりもはるかに複雑だ。


「宗教は信念体系である」説の問題:アメリカ宗教の場合

 宗教の学術的な定義は多様ではあるが、信念が抜け落ちている場合はほとんどない。さらに、宗教を単なる信念と教義というより、信念と教義の一貫した体系として捉える見方の方が一般的だ。もっとも古典的な例は20世紀初頭のエミール・デュルケームの定義「宗教とは、聖なる事物、すなわち分離され禁止された事物に関わる信念と実践とが連動している体系であり、それらの信念と実践とは、これに従うすべての人びとを、教会と呼ばれる同一の道徳的共同体に結びつけている」*2だろう。

 「宗教は信念体系である」という見方のもとでは、宗教は、教義・聖典にもとづく実践・それらを管理する組織と安易に結びつけられる。しかし、あらゆる「宗教」観が、(宗教の)特定の要素に焦点を当てつつ他の要素を捨象するモデルであることを認めるならば、教団制度(例えば教会)と結びついた「信念体系」として宗教を捉える見方では、他のモデルを用いることで容易に記述することができる現代アメリカの宗教的実践は見落とされてしまう。たとえば、社会調査のデータを精査すると、アメリカ人の宗教は単なる信念体系ではなく、むしろ特定の文脈に置かれた個人が作り上げる実践と思想のアマルガムであることがわかる。

 アメリカ人のほとんどは、日々の暮らしのなかで自らに合ったものを見つけるために、多様な宗教的・文化的要素を選んだり、混ぜ合わせたり、組み合わせたりしている。特定の教団に所属しない「ナンズnones」のみならず、特定の教団に所属する人もそうだ。宗教を信念体系を組み込んだ組織に限定してしまうと、アメリカの多様な宗教を大部分がキリスト教の陳腐な主要宗派のみに狭め、残りを無視する見方を意図せず推奨してしまうことになる。

 アメリカ宗教史の専門家であるロバート・オルシは「アメリカの宗教研究は、宗教的アドリブimprovisationsの研究である必要がある」と述べている。宗教的アドリブは、さまざまな宗教的・文化的素材のダイナミックな取捨選択、混合、融合という顕著なかたちをとる。

 第二次世界大戦以降のアメリカの宗教状況の変化は以下のようにまとめられる。主流派プロテスタントの減少と神学的保守派の伸長、一生の間に宗教を「切り替える」人の増加、教団組織に所属しない「ナンズ」と呼ばれる人々の増加、1965年の移民法改正を背景とするアジア系宗教のプレゼンスの拡大、マスメディア技術が可能にした宗教的素材へのアクセスの拡大、南部・中西部の幹線道路沿いの福音主義者・メガチャーチの増加、宗派に対する帰属意識と神学的特殊の重要性の低下、白人福音主義者と共和党の関係の深化、天使・悪魔・幽霊を信じる人の増加。

 こうした1950・60年代以降の変化について、多くの研究はアメリカの宗教における組織的権威から個人的権威への移行に着目してきた。ロバート・ヒューラーの『スピリチュアルだが宗教的ではない:教会に属さないアメリカを理解する(未邦訳)』Spiritual, But Not Religious: Understanding Unchurched Americaによると、アメリカ人はますます宗教教団に対して懐疑的になっている一方で、同時に自らの宗教的なあり方について自分自身で決めるようになっている。1985年にロバート・ベラーが同僚と出版した『心の習慣 ー アメリ個人主義のゆくえ』でも、個人主義アメリカ人の生活に浸透した宗教的な一例として、さまざまな要素を組み合わせた特異的な自らの宗教的信仰を「シェイラ教」と呼ぶシェイラ・ラルソンなる人物について論じている。

 人びとが一枚岩的な権威を受け入れるのではなく、さまざまな文化的要素をブレンドするようになったことは実証的にも顕著に見て取れるが、こうした先行研究は、宗教的ブレンドが、より広範な社会文化的・政治的・経済的動向によって規定されていることを見落としている。例えば『宗教を資本化する』Capitalizing Religionでクレイグ・マーティン*3は、先行研究が用いる個人主義というレトリックは、消費資本主義の物的諸力によって「「個人」そのものが集合的に構築される事態を隠蔽してしまっている」と述べている。特に「研究者が「個人的宗教individual religion」や「スピリチュアリティ」とみなす形態の多くは、消費や生産性、経済的・政治的構造に対する静観を奨励することで、個人を資本主義に特有の主体として構成している」と彼は論じる。私が引用した先行研究は多くのアメリカ人の宗教的ブレンドの実態をよく示しているものの、現代資本主義の物的・社会的状況を通して、そうした活動が社会的に慣れ親しまれるさま、すなわち身体化された傾向になる過程については見逃してしまっている。

 さまざまな宗教的・文化的要素のブレンディングが顕著な宗教的動向であることは種々の世論調査からも明らかになっている。「多くのアメリカ人は複数の信仰を混ぜ合わせている」と題した2009年のピュー研究所の世論調査の結果*4によると、死者と最近交流した経験があると答えたのは回答者の29%、樹木などの物体に霊的なエネルギーがあると答えたのは26%、占星術の情報が参考になると考えるのは25%、輪廻転生を信じるのは24%という結果が出ている。全体としては、回答者のうち65%が、こうした超自然的な現象のうち少なくとも一つに対する信仰や経験があるという。

 具体例として興味深いのは、輪廻転生に対する信仰だ。1970年代後半以降に取られた各種調査では、輪廻転生を信じるアメリカ人の割合は、最低で19%(1990年代初期)、最高で40%(2003年)という結果が出ている。輪廻転生を公式の教義とする仏教徒ヒンドゥー教徒は総人口の1-2%程度でしかないことを考えると、19%でもかなり多い。

 宗教的ブレンドの二つの顕著な流れ:折衷的で革新的なネオペイガン・ニューエイジにくわえ、シナゴーグで禅を活用する保守派ユダヤ教のラビ、超常現象に対する信仰とユング心理学を組み合わせる長老派の女性の聖書読書会といったケースにおいて、宗教とは、信念・教義の一貫した不変の体系ではなく、個人や社会をめぐる状況の変化に応じて個人が取り出すことのできるアイテムのレパートリーであり、変化し続ける実践と思想のアマルガムなのだ。

結論

 以上見てきたように、日々の生活のなかでアメリカの人びとは固定的で変更の余地のない信念を信じているというよりも、自らに合うものを見つけるために(個々人が置かれた社会的状況によって限定はされているが)さまざまな宗教的・文化的要素をブレンドしている。しかし、それがどうした、だから何?という人もいるだろう。アメリカ宗教に関する入門講義のシラバスを見渡せば「ネイティヴ・アメリカンの宗教」「ローマ・カトリック教会」「ユダヤ教」「福音主義」といった宗教伝統が並び、それぞれの指導者、ピューリタンであればジョン・ウィンスロップ、ユダヤ教であればアイザック・メイアー・ワイズ*5が著したシッドゥールについて説明がなされる。しかし、アメリカ宗教の紹介はこうした宗教伝統にとどまるべきではない。同様に、宗教に関するさまざまな定義を単に羅列して終わるのではなく、定義には、世界に対する特定の見方を当然だと思わせる一方で、他の見方をないものとして思わせるはたらきがあることを批判的に問わなければならない。研究者や実践者が宗教と呼ぶ雑多なものを信念体系として狭く理解しようとしても、明らかになることより隠されてしまうことの方が多い。

*1:日本ではロバート・ベラーの著作のイメージが強い『心の習慣』の共著者でもある。

*2:エミール・デュルケーム『宗教生活の基本形態』山崎亮訳(ちくま学芸文庫, 2014年), p. 95.

*3:この論集の編者でもある。専門は宗教理論。

*4:Many Americans Mix Multiple Faiths | Pew Research Center

*5:アメリカにおけるユダヤ教改革派の草分け的存在。

宗教に関するステレオタイプはどこから来たのか:リベラリズム・カトリック批判・世俗化論

肯定的なものであれ否定的なものであれ宗教に関するステレオタイプは巷間に溢れている。

そうしたステレオタイプを単なる事実誤認として切り捨てるのではなく、それらが意味をなすようになった歴史的背景や、その社会的・政治的効果をも批判的に検討した論集 Stereotyping Religion: Critiquing Clichés (Bloomsbury Academic, 2017)『宗教のステレオタイプ化:クリシェを批判する』の内容を紹介していく。今回取り上げるのは編者のブラッド・スタッダード(専門はアメリカ宗教史)、クレイグ・マーティン(専門は宗教理論)による序論(Introduction)。個々のステレオタイプの源流ともいうべき歴史的背景を押さえる重要性が説かれる。

要約

本書が取り上げる宗教に関するステレオタイプの多くには三つの歴史的背景、細分化すれば四つの背景(1)リベラリズム的宗教観の確立(2)プロテスタントによるカトリック批判(3-1)世俗化論(3-2)無神論の普及がある。

(1)リベラリズム的宗教観の確立
絶対王政に取って代わる政治思想として登場したリベラリズム(自由主義)
リベラリズムの歴史的背景:領主、カトリック諸派プロテスタント諸派の争い
 =リベラリズムが擁護する権利の筆頭として信教の自由freedom of religionが打ち出されることは当然
リベラリズムの宗教観
 国家:現世の人々の身体・財産に関与 ↔︎ 教会:死後の魂に関与
 国家の権力:(1)人々の身体・財産権の擁護 (2)国家による人権侵害の阻止に限定
 教会の権力:個人の魂の行方は現世の身体・財産とは無関係→教義を説くことに限定
 → 数世紀を経て「政教分離」が理想に
 →「宗教は私的な事柄である(=政治には関わらない) Religion is a private matter」「宗教は超越に関わる(=現世には関わらない) Religion concerns the transcendent」「宗教は(現実世界とは関係のない)教義の体系である Religion are belief systems」といったステレオタイプの源に

(2)プロテスタントによるカトリック批判(プロテスタントの理想化the idealization of Protestantism)
宗教改革者によるカトリックに対する批判:儀礼性・聖書に関して無知な一般信徒
 ↔︎ プロテスタントの特徴:聖書・信仰告白・単なる儀礼以上の神への献身の強調
プロテスタント的な「「真のキリスト教」観はそのまま「宗教」のあるべき姿であるとも考えられるように
・ヨーロッパの植民地主義の拡大とともに、世界各地の「諸宗教」はプロテスタントを基準に比較されるように
e.g. 「(聖書のような)聖典はあるか?」「(三位一体論のような)聖典にもとづく教義はある?」「(プロテスタントのような)儀礼を超えた真摯な信仰があるか?」
・インドに到達したヨーロッパ人は現地のエリートに伝わっていた古代の聖典を好意的に評価した一方で、西アフリカに到達したヨーロッパ人は聖典も教義も持たず呪術を実践する住民を「原始的な野蛮人」と軽蔑

(3-1)世俗化論
・20世紀後半に進んだヨーロッパのキリスト教徒の教会離れ
 = 特にイギリスでは不可知論・無神論者が増加
・宗教研究者は教会出席率の低下を「世俗化secularization」として説明しようとした。
・世俗化論のバリエーション
 「科学」や「理性」による宗教の代替(宗教=時代遅れの迷信)
   or グローバル化にともなう他者との接触がもたらす信仰の自明性の喪失
 → 程度の差こそあれ世俗化は不可避であり宗教はいずれ社会から消失するという見方「宗教はクソ Religion is a bullshit」というステレオタイプの前提

(3-2)無神論の普及
無宗教を自認する人が増加したことで無神論も平常なものと受け止められるように
 = 社会的偏見を被ることなく不可知論・無神論を公称することが可能に
(17世紀には多くの地域で無神論は刑罰の対象だった)
無神論の広がりとともに宗教は非合理的で幼稚で文化的に遅れたものとみなされるように
・21世紀の展開:リチャード・ドーキンスに代表される新無神論new atheism「宗教は虚偽であるのみならず悪でもある」

宗教に関するステレオタイプを理解するには、以上見てきたような歴史的文脈:リベラリズム的宗教観、(カトリック批判と表裏一体の)プロテスタントの理想化、世俗化(と並行して拡大した無神論)を押さえることが決定的に重要である。

本書で繰り広げられる10個のステレオタイプに対する批判は、間違いなく浮かび上がってくるであろう「それでは一体全体、宗教とは何なのか?」「宗教の特徴をどう説明すればいいのか?」「もしステレオタイプが問題であるなら、より適切に宗教について考えるにはどうすれば良いのか?」といった問いに答えを出すものではない。賢明な読者は気づいているかもしれないが、そうした(宗教に関する)一般化すべてが問題をはらんでいる。「すべての宗教は〇〇である」という言明は、「すべての女性は〇〇である」「すべての黒人は〇〇である」といった一般化と同じように問題があるステレオタイプに直面したら、その歴史的・政治的文脈を考えてほしい。誰が誰を何について納得させようとしているのか。ステレオタイプが真実として受け止められる場合、利益を得るのは誰で、不利益を被るのは誰か。結局、宗教に関するステレオタイプは宗教そのものというより、ステレオタイプを繰り返す人々についてより多くを語っているように思える

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次回からはいよいよ個別のステレオタイプの検討に移っていく。まずは「宗教は信念(教義)の体系である / Religions are belief systems」から。

クリシェは嘘だが役に立つ:宗教に関するステレオタイプをいかに批判するか

「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである」*1


「日本人は無宗教である」
「仏教は宗教というより哲学」
多神教は寛容だけど一神教は暴力的」
キリスト教だって最初は新興宗教だった」
イスラム教も宗教改革してテロを根絶すべき」

 誰もが一度は耳にしたことがあるであろう宗教に関するステレオタイプ。日本語圏でも宗教研究者を中心に、こうした固定観念に対しては少なくない批判が蓄積されてきたが、管見の限り、その多くはステレオタイプの真偽を判断するレベルに留まっているように思える。

1. ステレオタイプ批判の定石:宗教史・データにもとづく反証

 よく見られる批判は、あるステレオタイプに対し、その命題の反証となる宗教史の事例やデータをぶつけるというものだ。

 たとえば「日本人は多神教で寛容」というステレオタイプに対して宗教学者の堀江宗正は「多神教の日本人は他宗教に寛容だったか、信者は平和的だったか」と疑問を呈し、仏教受容をめぐる蘇我氏物部氏の対立、戦国時代の寺社勢力の武装徳川幕府によるキリシタン迫害、諸宗教による戦争への積極的協力などを反証として打ち出している。また、仏教諸派の中で最大の勢力を誇る浄土真宗諸派の神祇不拝*2新宗教で最大の教勢を誇る創価学会の根本仏信仰を取り上げ、そもそも日本の宗教一般は「多神教的」と呼べるのかと問題提起している*3

 また、堀江は世界価値観調査(2010-14年)にもとづき「無神論の強い中国、多神教のモンスーン的風土と論じられてきたインド、プロテスタントが主流だが多民族国家アメリカ、カトリックが多いが「人種のるつぼ」と言われるブラジル、ムスリムが多くインドと対立しているパキスタン、これらを「寛容な多神教の国」日本と比較」する。「結果は燦々たるもの」で、「他宗教の信者を信頼する」は下から二番目、「他宗教の信者も道徳的」は最低、「他宗教の信者と隣人になりたくない」は上から二番目の嫌悪度、「移民・外国人労働者と隣人になりたくない」人の割合はもっとも高いことから、「「一神教は不寛容で、多神教の日本人は他宗教に寛容である」という言説は、事実と正反対だと結論できる。宗教を軽視するから無節操に折衷しているだけであり、外来宗教との接触が少ないから、自分たちは寛容だと思い込んでいるだけである」と結論を述べている*4

2. 真偽判定型批判をこえて:ステレオタイプの政治的効果を問う

 もちろん、史実やデータに照らしてステレオタイプが間違い=嘘であることを指摘する重要性はいくら強調してもしすぎるということはない。しかし、宗教に関するステレオタイプは、虚偽であるのにもかわらず特定の政治的目標を達成する強力な手段として用いられてきたし、今もなお用いられている*5。つまり、ステレオタイプは間違っているが政治的には役に立つのだ*6。こうした問題意識にもとづき、真偽判定型の批判から一歩踏み込み、ステレオタイプの政治性(役に立ち方)の批判を試みているのが、Stereotyping Religion: Critiquing Clichés (Bloomsbury Academic, 2017)『宗教のステレオタイプ化:クリシェを批判する』である。

本書は、宗教に関する10個のステレオタイプ*7を個別に取り上げ批判的に検証するというコンセプトで書かれているが、それぞれの批判には三つの共通点がある。

 第一に、無時間的な真理を装うステレオタイプにも特定の起源・歴史があるという点。あるステレオタイプが意味をなし、特定の人々にとって望ましいものとなる背景には、新たな社会的・文化的・政治的・経済的状況の変化がある。

 第二に、単にステレオタイプそのものの妥当性を検討するだけでなく、ステレオタイプを作り出し支持する人々や集団にも着目するという点。個々のステレオタイプが描き出す宗教像は、そのステレオタイプの拡散者の利益に合致している。人びとがステレオタイプを用いるのはステレオタイプが正しいからではなく、自らにとって都合の良い「宗教」像を作り上げられるからだ。

 第三に、それぞれのステレオタイプがはらむ問題点を取り上げ、その反証を提示する点。

 一つ目、三つ目は正誤判定型のアプローチにも通じる着眼点である。宗教史・データに基づく「多神教の日本人は寛容」説への反駁にくわえて、一神教多神教を対立させ後者に優位性を見て取る議論の下敷きには和辻哲郎の『風土』(1935年)があると堀江は述べている。和辻の議論自体は「一神教」の特徴を固定化していないものの、その「日本の自然と文化の独自性を強調する文体」は「戦争に向かう日本人の愛国心を高め、戦後においては政治と関係ない「文化」論として受け継がれ」、冷戦終結後の1990年代に「世界の紛争の激化のなかで再浮上してきた」という*8

3. ステレオタイプはいかに役に立つのか:枝野発言を例に

 一方で、二つ目の視座:ステレオタイプを用いる人びとや集団の特徴、その利害関心、政治的狙いについては堀江の議論は若干の言及(e.g. 戦前日本における愛国心の高揚)に留まっている。しかし、現に「多神教の日本人は寛容」説は明確な政治的意図のもと用いられている

その一例が、2017年10月の立憲民主党枝野幸男代表による以下の発言である。

「和を以て尊しとなす」。まさに日本の歴史と伝統といったときに、一番古い、そして一貫している日本社会の精神です。「和を以て尊し」だから、多様性を認めているんですよ。日本は数少ない多神教文明ですからね。唯一絶対の価値ではないんです。日本社会は、もともとリベラルなんです。

www.huffingtonpost.jp

 枝野の発言には「日本は数少ない多神教文明であり本質的にリベラル」という明確なステレオタイプが見て取れる*9

 この枝野の発言に対しては、まず「多神教文明は本当に数少ないのか?」(そもそも多神教(文明)・一神教(文明)という分類は妥当なのか?)「多神教文明は本当に多様性を認めてきたのか?」「リベラリズムの母体が一神教文明であることと議論の整合性をどのように保つのか?」(史実・データにもとづく反証)といった疑義を挟み込むことができる。

 こうした批判にとどまらず、さらに検討すべきなのは、 枝野の政治的立場、発言がなされた政治的文脈である。枝野は自らの政治的立場を「リベラルであり、保守である」とみなす一方で、対立する自民党は保守ではなく革新であると指摘する。「リベラル」と「保守」双方の真正な担い手であると自己認識する彼のロジックは以下のようにまとめられるだろう。

「保守」は「和を以って尊しとせよ」という日本の多神教的な伝統を重んじる。その伝統は多様性を認める「リベラル」でもある。ゆえに「リベラル」な伝統を重視する自らこそが真の「保守」の担い手であり、自民党は保守を僭称している。

 枝野の語りにおいて「日本=多神教文明=本質的にリベラル」というステレオタイプは、保守とリベラルという一見対立する政治的立場を媒介する機能を果たしており、そのレトリックは保守・リベラル双方からの支持を狙ったものといえる

4. おわりに

 以上論じてきたように、ステレオタイプの真偽を論じることは批判の第一歩として必須の作業である。しかし、ステレオタイプは間違いだと言ったところで簡単に消えてなくなるものではない*10。一世を風靡した某ドラマをもじって言えば、クリシェは嘘だが役に立つのである。*11

 以下に示した本書が取り上げる10個のステレオタイプには「宗教は人を道徳的にする」をはじめとして、日本語圏ではピンとこないものもある。そのあたりは編者も織り込み済みで「(本書が取り上げる)ステレオタイプのほとんどに西洋的、もっと言えばアメリカ的なバイアスがかかっていることは疑いようがない。したがって、本書が取り扱う言説は、アメリカの言論空間において広く流通しているステレオタイプということになる」と述べている。

  1. 「宗教は信念(教義)の体系である / Religions are belief systems」
  2. 「宗教は本質的に暴力的である / Religions are intrinsically violent」
  3. 「宗教は人を道徳的にする / Religion makes people moral」
  4. 「宗教は超越的なものに関わる / Religion concerns the transcendent」
  5. 「宗教は私的な事柄である / Religion is a private matter」
  6. 「宗教は相互に排他的である / Religions are mutually exclusive」
  7. 「私はスピリチュアルではあるが宗教的ではない / I'm spiritual but not religious」
  8. 「宗教について知ることは寛容につながる / Learning about religion leads to tolerance」
  9. 「誰もが信仰を持っている / Everyone has a faith」
  10. 「宗教はクソ / Religion is a bullshit」

 一方で、「宗教は信念(教義)の体系である」というように、ステレオタイプというより宗教そのものの姿を正確に捉えた定義*12ではないかと思わせられるものもあるし、「宗教について知ることは寛容につながる」という古今東西誰もが同意できそうな異文化理解の決まり文句もある。こうした一見常識的な宗教の捉え方は、いかなる点でステレオタイプといえるのか。誰の、どのような目的にとって役に立っているのか。当たり前が当たり前になっていく歴史的背景や、その利用のされ方について本書は切り込んでいく。

 今後、このブログでは、そのアメリカ的なバイアスに留意しつつ、日本語圏における類似の事例とも比較しつつ、各ステレオタイプに対する批判をまとめていきたい。

*1:ウォルター・リップマン『世論〈上〉』掛川トミ子訳(岩波文庫, 1987年), p. 111.

*2:ただし、一神教的と称されることも多い浄土真宗阿弥陀仏信仰の実態は、あえてユダヤキリスト教的価値を負う一神教というカテゴリーにこだわって表現するのであれば、拝一神教(他神の存在は認めながらも、特定の一神とのみ関係を持つあり方)的といった方が的確だろう。「法然親鸞は、阿弥陀仏以外の仏菩薩や神を軽んじていたのでは決してない。そうではなく、あくまでも、諸仏菩薩や神は念仏を称える者を擁護してくれるのだから、あえてそれらを拝む必要はない、としたのである」小山聡子『浄土真宗とは何か』(中公新書, 2017年), p. 93.

*3:堀江宗正「争点4 日本人は他宗教に寛容なのか」堀江宗正責任編集『いま宗教に向きあう(1)現代日本の宗教事情(国内編Ⅰ)』(岩波書店, 2018年), p.206.

*4:堀江(2018), pp. 210-12.

*5:例えば、「イスラーム教は宗教ではなく政治的イデオロギーなのだから信教の自由に値しない」という「イスラーム教=非宗教」説を根拠にアメリカ国内ではモスク建設やシャリーアの禁止を訴える保守派が勢力を強めている。

*6:ステレオタイプ概念の提唱者であるウォルター・リップマンも、ステレオタイプ自体を否定しているわけではない。混沌とした世界を単純化し整理する認知的機能は役に立つ(『世論』, p. 111.)。批判すべきは、ステレオタイプに否定的な感情や評価が結びつき偏見や差別に転化してしまうメカニズムである。

*7:取り上げられるクリシェは以下の通り。

  1. 「宗教は信念体系である / Religions are belief systems」
  2. 「宗教は本質的に暴力的である / Religions are intrinsically violent」
  3. 「宗教は人を道徳的にする / Religion makes people moral」
  4. 「宗教は超越的なものに関わる / Religion concerns the transcendent」
  5. 「宗教は私的な事柄である / Religion is a private matter」
  6. 「宗教は相互に排他的である / Religions are mutually exclusive」
  7. 「私はスピリチュアルではあるが宗教的ではない / I'm spiritual but not religious」
  8. 「宗教について知ることは寛容につながる / Learning about religion leads to tolerance」
  9. 「誰もが信仰を持っている / Everyone has a faith」
  10. 「宗教はクソ / Religion is a bullshit」

*8:堀江(2018), p. 204-5.

*9:なお、明言はされていないものの、その前提には「(多神教文明に対して)一神教文明は抑圧的」という対となるステレオタイプが隠れている。

*10:というよりむしろ、ステレオタイプステレオタイプとして維持される所以は、一度ステレオタイプを抱いてしまうと、その枠組みに該当しない情報は無視され、一致する情報のみ取り入れらてしまうからである(いわゆる仮設確証型の情報処理)。「多神教は寛容で一神教は排他的」というステレオタイプを抱く人に、反証となる事例:排他的な多神教の事例(e.g. 仏教徒によるロヒンギャの迫害)や寛容な一神教の事例(e.g. キリスト教の一派で絶対平和主義を掲げるクェーカー)は認識されにくい。

*11:フェイク・ニュースもまた虚偽であるのにもかかわらず、というより虚偽だからこそ政治的影響力をもつ。

*12:例えば『明鏡国語辞典』第二版では宗教を「神や仏など人間の力を超える絶対的なものの存在を信じ、それを信仰すること。また、そのための教義や制度の体系」と定義している。

チャールズ・テイラー『世俗の時代』を読む(2-1)

前編(1)はこちらから

persona-sasaki.hatenablog.com

 <前節の要旨>
北大西洋世界に生きる人びとは「世俗の時代」を生きている。世俗の時代は、二つの世俗性[世俗性(1)]政教分離[世俗性(2)]宗教的信仰・実践の衰退からなるとされるが、検討すべきなのは[世俗性(3)]神に対する信仰が自明ではなくなり数ある選択肢の一つでしかなくなった状況である。神を信じないことがほぼ不可能だった社会から、篤信家にとっても信仰が単なる選択肢の一つとして認識されるような社会への変容=信じることの条件の変化が本書の主題である。

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Introduction (2-1) pp. 4-6

<要旨>
世俗の時代を理解するには、世俗性(2)(科学が宗教に取って代わったこと)では不十分で、世俗性(3)に着目する必要がある。科学との類比から信じること(信じないこと)を理論として認識論的なレベルで捉えるのではなく、生きられた体験として捉えることが世俗性(3)を明らかにする一歩だ。信仰の有無にかかわらず、人はある状況や行為に満ち満ちた感じを覚えることがある。たとえば、何でもない平凡な景色に畏怖の念を感じざるをえないような場合だ。

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<本文の要約>
[第1段落:世俗性(3)を論じる困難さ]
・人々が関心を払うのは信仰そのもの(belief itself)*1であることから、その体験の諸条件(the conditions of experience)について明らかにするのには想像以上の困難が伴う。

[第2段落:北大西洋社会における「宗教=信仰」観の背景]
北大西洋社会では通常、宗教は信仰の観点から特徴付けられる。その背景にあるのは、(1)キリスト教の自己定義が常に信条(creedal statments)と紐づられてきたこと、(2)世俗性(2)がキリスト教信仰の衰退と同一視されてきたこと、その衰退が科学や理性に対する信仰や個別の科学理論(進化論・精神機能の神経生理学的説明)の登場などによって惹き起こされてきたことである。

[第3段落:世俗性(3)に着目する理由]
・「科学が宗教に取って代わった」という世俗性(2)の説明は、二つのレベルで不十分。(1)例えば、進化論が宗教の拒否につながったという議論には説得力がない。(2)この種の説明は、実際に人々が信仰から離れた理由の十分な説明になっていない。心理学的あるいは歴史的には十分な説明かもしれないが、原理主義無神論の間のありえたかもしれない数多くの可能性を取りこぼしてしまっているし、なぜそうした可能性が実現しなかったのかを説明できていない*2。[科学勝利史観に代わる]より深い説明は、私が明らかにしようとしている世俗性(3)に見出せるはずだ。

[第4段落:信/不信を「生きられた経験」として捉え直す]
・世俗性(3)について明らかにするために、信じること(belief)と信じないこと(unbelief)を、競合する理論(theories)*3としてではなく、神であれ自然界のものであれ何でもかまわないが、それらをよすがに、実存あるいは道徳について人々が説明するさまざまな方法(ways that people account fore exitence, or morality, whether by God or by something in nature, or whatever)として扱っていきたい。これは、人がさまざまな仕方によって自らの生について了解するさいに生じる多様な生きられた経験(the different kinds of lived experience involved in understanding your life in one way or the other)や、信じる者あるいは信じない者として生きることはいかなることなのか(what it's like to live as a believer or an unbeliever)とも言い換えれる。

[第5段落:信/不信の意味]
・信じるか信じないかは、私たちが精神的・宗教的生を送るにあたって取り得る最も広い意味での選択[最初の選択]であるといえる。

[第6段落:満ち満ちた感じ]
・私たちは、自らの生とその生が営まれる場、あるいそのどちらかを、何らかの精神的・宗教的様相を呈するものとして捉えている。ある行為、あるいは状況に、満ち満ちた感じ[満たされた感じ](fullness/richness)が宿る。その行為や状況の中で、生は、より満たされたもの、より豊かなもの、より深いもの、より価値あるもの、より賞賛すべきもの、あるべき姿を超えるものとなる。おそらくそうした場には力が働いている。心を揺り動かされるもの、鼓舞されるようなものとして、そうした場を私たちは体験する。この満たされた感じは、遠く離れた場所からほんの少しだけ垣間見ることができるものである。仮にそうした状況に置かれたら、満ち満ちた感じがどのようなものなのか*4について、私たちははっきりとした直観をもっている。しかし、ときに、私たちはそうした状態にあることを意識しながら、満たされた感じを体験することができる。数ある事例の一つが、ビード・グリフィス*5の自伝から引いた以下の一節だ。

[第7段落:満ち満ちた感じの具体例]
「最終学期のある日、夕方一人で歩いていた私は鳥たちが大合唱を奏でているのを聞きました。それは一年の中でもその時間、日の出か夕暮れのときにしか聞けないものでした。私は今でも、その音色が耳に届いたときの衝撃を覚えています。そのように鳥が鳴いているのを私は聞いたことがなかったように思えましたし、本当に一年中鳥は鳴いているのか、それに私はまったく気づくことがなかったのか、不思議に思ったものです。さらに歩いていった私は満開のサンザシの花を見つけました。そこで再び、そんな景色は見たこともないし、そんな愛らしさを覚えたことも今まで一度もないと思ったのです。たとえ、突然エデンの園に連れて行かれ天使の合唱を聞いたとしても、そのとき以上に驚くことはなかったでしょう。次に私が見たのは、校庭に沈んでいく太陽でした。すると、立っていた木の根本から急に一羽のヒバリが飛び立ち、私の頭のうえで鳴き声を奏でると、まだ合唱を続けていた残りの群れに飛び込んでいきました。日が沈み、地上を闇が包み始めにつれて、静寂が訪れました。そのとき感じた畏怖の念を私は今でも覚えています。天使を前にしているかのように、地面にひざまずきたい気持ちに駆られました。空を真正面から見ることなんてとてもできませんでした。空は、神の顔を隠すヴェールのようだったのです」

[第8段落:平凡な現実の異化としての満ち満ちた感じ]
グリフィスの事例で満たされた感じが現れるのは、慣れ親しんだモノ・行為・参照軸とともに普通にこの世界で生きる感覚が、揺るがされ打ち破られる体験のなかだ。これは、ピーター・バーガーの表現を借りれば、「平凡な現実が「ぶち壊され」、ゾッとするような異質なものがはっきりと現れる」状況だろう。

<弁明と雑感>
・ここに来て、「体験」と訳すべき"lived experience"が登場。やはり解釈学の基本的な語彙を確認する必要がありそう。

・本書の最重要キーワードといっても過言ではない"fullness/richness"の訳語について。「充溢感」「充実感」という堅い訳を避けたのは、何に充たされているのか、それはどこに由来するものなのか、という二点を意識したため。英語の受動態を意識して「満たされた感じ」とすると、外部(超越的存在?)から何らかのものが個人の心身を満たしていくイメージになるが、「満ち満ちた感じ」とすると個々人の内部(内在的?)から何らかのもの湧き出てくるイメージになる。が、特にまだ訳し分けず互換的に使ってみている。後の議論でテイラーが導入する「超越(transcendent)/内在(immanent)」という整理とも関連しそうなのでメモ。

*1:著者が例として挙げているのは、宗教人口やその将来予測、政教分離下での宗教の取り扱い。

*2:例えば、人工知能をめぐる言説が避けがたく帯びる宗教色

aeon.co

など、今日の科学技術をめぐる状況には「科学的理性による宗教的迷信の打破」という通俗的進歩史観とは齟齬を来たす事例が多々ある。この点、原理主義無神論が取り結ぶありえたかもしれない関係は、著者の見立てに反し、一部実現しているようにも思える。

*3:強調は原文。

*4:安らぎや全体性がどのような感じなのか、誠実さ、寛大さ、無私無欲、無我のレベルで行われる行為がいかなるものなのか

*5:Bede Griffiths(1906-1993):イギリス生まれのベネディクトゥス会士。南インドでヨーガ行者となり、キリスト教ヒンドゥー教の宗教間対話に貢献。

チャールズ・テイラー『世俗の時代』を読む(1)

かの社会学者ロバート・ベラーをして「私の生涯の中で書かれた最も重要な書物の一つ」*1と言わしめたチャールズ・テイラー『世俗の時代』を1節ずつ読み進めていった記録です。

www.hup.harvard.edu

Introduciton (1) pp. 1-4

<要旨>
北大西洋世界に生きる人びとは「世俗の時代」を生きている。世俗の時代は、二つの世俗性[世俗性(1)]政教分離[世俗性(2)]宗教的信仰・実践の衰退からなるとされるが、検討すべきなのは[世俗性(3)]神に対する信仰が自明ではなくなり数ある選択肢の一つでしかなくなった状況である。神を信じないことがほぼ不可能だった社会から、篤信家にとっても信仰が単なる選択肢の一つとして認識されるような社会への変容=信じることの条件の変化が本書の主題である。

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<本文の要約>
・西洋あるいは北大西洋世界(the North Atlantic world)*2に生きる私たちは、人類史上のあらゆる社会(北大西洋世界を含む過去の世界+同時代の他の社会*3 )と比較したとき、世俗の時代(a secular age)を生きていると言わざるをえない。【第1段落】

・世俗であること[世俗性](secularity)の構成要素には二つの候補がある。

世俗性(1)/政治機構(state)と宗教の分離
・前近代の政治組織は、神に対する信仰や神あるいは何らかの究極的実在への恭順と何らかのかたちで結びついたり、それらに基づいていたり、それらによって保証されたりしていた。こうした結びつきから近代の西洋国家は解放されている。教会は政治機構から分離され、宗教あるいはその不在は概して私的な問題とされる。政治組織は信仰を持つ者・信仰を持たない者の両者のものとみなされる(= 「世俗的な」社会では神と出会うことなく政治に関与することが可能に)。【第2〜3段落】

世俗性(2)/宗教的信仰・実践の衰退(the falling off of religious beleif and practice)
・あらゆるものと宗教*4が混ざり合い、宗教・政治・経済・社会といった私たちの社会[近代の北大西洋社会]の分類が全く意味をなさない古代の諸社会や、利息の禁止や正統の強制など聖職者を通してキリスト教が有無を言わせぬ規制を敷いていた中世とは根本的に異なる、経済・政治・文化・教育・学問・娯楽といった領域における行動の基準が各領域の合理性(利潤の最大化(経済)・最大多数の最大幸福(政治)など)に求められる社会。【第4〜6段落】

・自律的な社会の諸領域から宗教がなくなっていったことと、大多数の人々が神を信じ続け熱心に信仰を実践し続けていることは両立している(e.g. 共産主義政権下のポーランド*5政教分離を歴史的には最初期に実現しながらも西洋社会で最も高い宗教的信仰・実践を記録するアメリカ)。【第7段落】

・が、ここで検討に値するのは、世俗性(2)と密接に結びつき、世俗性(1)とも関係がないわけではない世俗的であることの第三の意味。【第9段落】

世俗性(3)/信仰が自明ではなくなった状況
神に対する信仰が確固たるもので自明とされる社会(a society where beleif in God is unchallenged and indeed, unproblematic)から、信仰が数ある選択肢の一つとして理解され多くの場合最も受け入れやすいものではなくなった社会(one in which it is understood to be one option among others, and frequently not the easiest to embrace)への変化。

・多くのイスラーム教社会と(ポスト)キリスト教社会のあいだにある、信じることがいかなることなのか(what it is to believe)*6に関する大きな違い:後者では信じることは一選択肢、それも物議を醸す選択肢であるのに対し、前者ではそうではない。この意味では、世俗性(2)の点では非世俗的なアメリカ社会もまた世俗的であるといえる。【第10段落】

・世俗性(3)は、私たちの倫理的、精神的あるいは宗教的な体験と探索がなされる了解の文脈全体に関わるもの(a matter of the whole context of understanding in which our moral, spiritual or religious experience and search takes place)。ここでの「了解の文脈」とは、(1)意見の複数性などほぼ全ての人びとによって公言される事柄と(2)経験・探求を可能にするほとんど取り上げられることのない隠れた前提=ハイデガー的に言えば「前存在pre-ontology」の双方を指す。【第11段落】

・任意の時代や社会が世俗的か否かは、宗教的なものの体験と探求の条件(the conditions of experience of and search for the spiritual)に照らして判断できる。この条件に照らした際のある時代や社会の立ち位置は、世俗性(2)と大いに関係があるが、アメリカが好例であるように両者は単に相関関係にあるわけではない。世俗性(1)は、残り二つとはおそらく関係がない(インドの事例を後述)。が、西洋に限って言えば、世俗性(1)へのシフトは、世俗性(3)をもたらす一要素である。【第12段落】

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<弁明と雑感>
・宗教的信仰が自明ではなくなった北大西洋世界とは異なる社会としてイスラーム社会をテイラーは対照させているが、その一枚岩的な表象にオリエンタリズム的な眼差しを感じないわでもない。が、いわゆる古典的な近代化論とは異なり、テイラーは世俗の時代そのものを目的論的に近代の最高到達地点として賛美しているわけではないので、あくまで理念型的にイスラーム社会を世俗の時代と対置させているだけと考えるのが筋かもしれない。とはいえ、やはり西洋の内的多様性をふまえて北大西洋世界という独特な地域区分を採用しているのだから、イスラーム社会に関しても同様の配慮がなされるのが公平ではないか。このあたりは『世俗の時代』に対する社会学歴史学キリスト教神学といった諸分野からの識者の応答を集めたMichael Warner, Jonathan Vanantwerpen, and Craig Calhoun (eds.), Varieties of Secularism in a Secular Age (Cambridge: Harvard University Press, 2010). 等ですでに指摘されていそうだ。昨年ゼミで読んだが内容をほとんど忘れてしまったので再読してみたい。

www.hup.harvard.edu

ハイデガーに関して無知である(自己責任)うえに具体例が皆無(今後に期待)ということもあり、第1節を読んだ限りでは世俗性(3)の言い換えである「霊的なものを経験し、探し求めようとする際の条件」が読者の理解に資するパラフレーズになっている気がしない(つまりよくわからない)。要は「宗教体験を実際にしたり追い求めたりする場合にそれが決して自明ではなくなっていることを否が応でも意識せざるをえない状況」的な感じだろうか。

・英語では"experience"として一括される「経験」と「体験」は、ドイツ語ではそれぞれ"Erfahrung"と"Erlebnis"と訳し分けられる。「経験が外界の知的認識という客観的な意味をもつのに対し、体験はより主観的、個人的な色彩が濃い。すなわち、知性による整序や普遍化を経ていない点で客観性を欠き、具体的かつ1回的なできごととして情意的な内容までも含んでいる」体験を「全体的把握にまで高める作業」をデュルタイは「了解Verstehen/understanding」(野家啓一「体験 Erlebnis」『日本大百科全書』)と呼んだ語用法を踏まえると、"experience"は「体験」、"undrestanding"は「了解」と訳すのが適切だろう。

・また、"moral"を倫理的、"spiritual"を精神的、"religious"を宗教的と訳してみたものの、三者の関係は不明瞭。通常、宗教研究では"spiritual"を「霊的」(ときどき「宗教的」)と訳す場合が多いが、この三つが併用されていること箇所では「倫理」「精神」「宗教」という重なり合いつつも完全には一致しない領域を表すためにあえて「霊的」という訳は採らず、"spiritual"が単体で用いられる箇所では「宗教的」と訳してみた。

・解釈学的循環ではないが、『世俗の時代』単体でその論旨を理解し切れるかというと、テイラー自身も『自我の源泉』(http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0648-4.html)と本書の結びつきを随所で述べているように、やはりテイラー思想の全体をふまえた読解が必要になりそうだ。

*1:

tif.ssrc.org

*2:西洋ではなく「北大西洋世界」という地域区分にテイラーがこだわるのは、「西洋」の内的多様性への配慮からだろう。「北大西洋世界」にカテゴライズされるのは、具体的には、アメリカ・カナダ・イギリス・西ヨーロッパ・北ヨーロッパ諸国であり、南ヨーロッパ・東ヨーロッパ諸国は議論の射程に入っていないように思われる。

*3:テイラーは部分的に、かつ異なるかたちで世俗の時代は北大西洋世界を越えて他地域にも広まっていると慎重に留保を表明しているが、日本はその一例だろう。

*4:前近代における人間生活全般に行き渡っていた宗教の状況を記述する際に、あたかも宗教とその他の領域が区別されていたかのように「宗教」と「あらゆるもの」が絡み合っていたという表現を用いるのには問題がある。そもそも前近代の人びとの世界認識においては、そもそも宗教とそれ以外のものという区別が存在しなかった、というのがテイラーの見立てである。

*5:テイラーは明言していないが、ワレサ(ヴァウェンサ)が率いた民主化運動とカトリック教会の結びつきを指しているものと考えられる。

*6:強調は原文