宗教学徒のメチエ

宗教学を専攻する大学院生が日々の学びについて記します。

宗教は信念体系なのか?

 肯定的なものであれ否定的なものであれ宗教に関するステレオタイプは巷間に溢れている。

 そうしたステレオタイプを単なる事実誤認として切り捨てるのではなく、それらが意味をなすようになった歴史的背景や、その社会的・政治的効果をも批判的に検討した論集 Stereotyping Religion: Critiquing Clichés (Bloomsbury Academic, 2017)『宗教のステレオタイプ化:クリシェを批判する』の内容を紹介していく。

 初回となるこの記事で取り上げるのはシーン・マクラウド(専門はアメリカ宗教)による「宗教は信念体系である」というステレオタイプに対する批判。首尾一貫した信念体系として宗教をとらえる見方では、多くのアメリカ人のハイブリッドな宗教実践は見落とされてしまうと警鐘を鳴らす。
persona-sasaki.hatenablog.com

 私たちの多くは、宗教といえば信念(belief)に関するものであり、宗教的なものであれそうでないものであれ、個人の行為の基礎には信念があると思い込んでいる。たとえば、テロの背景には宗教的信仰(religious belief)があると主張する人もいれば、テロ行為は「真の」信仰には反するのだから宗教的とは言えないと反論する人もいる。本章の目的は、いわゆる宗教と信念が無関係であると主張することではないし、「信念体系」と呼べる教義が一部の宗教にあることを否定することでもない。そうではなく、「宗教とは信念に関するものである」「宗教は信念体系である」といった見方がいかにも心地よい自明の前提とされる理由を考察することである。


「信念」という概念がはらむ問題

 「宗教とは信念に関するものである」という宗教観は宗教改革のさなかに登場した。この見方は、「無意味で異教の名残をとどめ純粋ではない」(とプロテスタントが批判した)カトリック儀礼ritualから自分たちを区別するために純粋な信仰に訴えたプロテスタントにとって魅力的だった。しかし、この宗教観は、多くの宗教において信仰より儀礼・行為が重視されていること(ユダヤ教の一部、カトリック、禅など)を見落としている。

 また、「人間は自律的で合理的、意識的で首尾一貫した存在である」というイメージは多くの人にとって違和感のないものだろうが、個人の言動は首尾一貫しているわけではなく、場所・時間・社会集団に大きく規定されていることを研究は明らかにしている。社会学者のアン・スウィドラー*1の『愛の語り方:その文化との関係(未邦訳)』によると、インタビューの回答者は、質問のされ方によって、愛について語る際に二つの対照的な語彙を用いたという。「愛とは何か」と聞かれた回答者は自由で自発的な選択として愛を語ったのに対し、「なぜ結婚し続けなければならないのか」「死にゆく最愛の人を看取るべきか」という質問に対しては、責任や義務として愛を語った。スウィドラーは「ほとんどの人は、単一で統一した態度や信念を持っているわけではないのだから、文化研究にとってそのような統一的な信念を探ろうとするのは間違っていた」と述べている。

 このように、人間はいつでも論理的に一貫した考えや思想を持つと想定している点で「信念」概念には問題がある。それだけではなく、意識的な思考ばかりに着目する「信念」概念は、必ずしも意識しないかたちで「宗教」が身体や情動に働きかけるさまを見落としてしまっている。信念ではなく身体化された傾向(embodied disposition)と宗教との関わりの方が見て取りやすいだろう。身体化された傾向とは、習慣の力、あるいは人類学者のジェシカ・ジョンソンの言葉を借りれば、行為・感情を引き起こす「原理原則にとらわれない確信convictions unbounded by doctrine」をさす。言い換えれば、過去が個人を作り上げるということだ。身体化された傾向が機能することで、個人は「宗教的」な考えや実践に惹きつけられたり逆にそれらから離れたりするが、これは「信念」概念が示すモデルよりもはるかに複雑だ。


「宗教は信念体系である」説の問題:アメリカ宗教の場合

 宗教の学術的な定義は多様ではあるが、信念が抜け落ちている場合はほとんどない。さらに、宗教を単なる信念と教義というより、信念と教義の一貫した体系として捉える見方の方が一般的だ。もっとも古典的な例は20世紀初頭のエミール・デュルケームの定義「宗教とは、聖なる事物、すなわち分離され禁止された事物に関わる信念と実践とが連動している体系であり、それらの信念と実践とは、これに従うすべての人びとを、教会と呼ばれる同一の道徳的共同体に結びつけている」*2だろう。

 「宗教は信念体系である」という見方のもとでは、宗教は、教義・聖典にもとづく実践・それらを管理する組織と安易に結びつけられる。しかし、あらゆる「宗教」観が、(宗教の)特定の要素に焦点を当てつつ他の要素を捨象するモデルであることを認めるならば、教団制度(例えば教会)と結びついた「信念体系」として宗教を捉える見方では、他のモデルを用いることで容易に記述することができる現代アメリカの宗教的実践は見落とされてしまう。たとえば、社会調査のデータを精査すると、アメリカ人の宗教は単なる信念体系ではなく、むしろ特定の文脈に置かれた個人が作り上げる実践と思想のアマルガムであることがわかる。

 アメリカ人のほとんどは、日々の暮らしのなかで自らに合ったものを見つけるために、多様な宗教的・文化的要素を選んだり、混ぜ合わせたり、組み合わせたりしている。特定の教団に所属しない「ナンズnones」のみならず、特定の教団に所属する人もそうだ。宗教を信念体系を組み込んだ組織に限定してしまうと、アメリカの多様な宗教を大部分がキリスト教の陳腐な主要宗派のみに狭め、残りを無視する見方を意図せず推奨してしまうことになる。

 アメリカ宗教史の専門家であるロバート・オルシは「アメリカの宗教研究は、宗教的アドリブimprovisationsの研究である必要がある」と述べている。宗教的アドリブは、さまざまな宗教的・文化的素材のダイナミックな取捨選択、混合、融合という顕著なかたちをとる。

 第二次世界大戦以降のアメリカの宗教状況の変化は以下のようにまとめられる。主流派プロテスタントの減少と神学的保守派の伸長、一生の間に宗教を「切り替える」人の増加、教団組織に所属しない「ナンズ」と呼ばれる人々の増加、1965年の移民法改正を背景とするアジア系宗教のプレゼンスの拡大、マスメディア技術が可能にした宗教的素材へのアクセスの拡大、南部・中西部の幹線道路沿いの福音主義者・メガチャーチの増加、宗派に対する帰属意識と神学的特殊の重要性の低下、白人福音主義者と共和党の関係の深化、天使・悪魔・幽霊を信じる人の増加。

 こうした1950・60年代以降の変化について、多くの研究はアメリカの宗教における組織的権威から個人的権威への移行に着目してきた。ロバート・ヒューラーの『スピリチュアルだが宗教的ではない:教会に属さないアメリカを理解する(未邦訳)』Spiritual, But Not Religious: Understanding Unchurched Americaによると、アメリカ人はますます宗教教団に対して懐疑的になっている一方で、同時に自らの宗教的なあり方について自分自身で決めるようになっている。1985年にロバート・ベラーが同僚と出版した『心の習慣 ー アメリ個人主義のゆくえ』でも、個人主義アメリカ人の生活に浸透した宗教的な一例として、さまざまな要素を組み合わせた特異的な自らの宗教的信仰を「シェイラ教」と呼ぶシェイラ・ラルソンなる人物について論じている。

 人びとが一枚岩的な権威を受け入れるのではなく、さまざまな文化的要素をブレンドするようになったことは実証的にも顕著に見て取れるが、こうした先行研究は、宗教的ブレンドが、より広範な社会文化的・政治的・経済的動向によって規定されていることを見落としている。例えば『宗教を資本化する』Capitalizing Religionでクレイグ・マーティン*3は、先行研究が用いる個人主義というレトリックは、消費資本主義の物的諸力によって「「個人」そのものが集合的に構築される事態を隠蔽してしまっている」と述べている。特に「研究者が「個人的宗教individual religion」や「スピリチュアリティ」とみなす形態の多くは、消費や生産性、経済的・政治的構造に対する静観を奨励することで、個人を資本主義に特有の主体として構成している」と彼は論じる。私が引用した先行研究は多くのアメリカ人の宗教的ブレンドの実態をよく示しているものの、現代資本主義の物的・社会的状況を通して、そうした活動が社会的に慣れ親しまれるさま、すなわち身体化された傾向になる過程については見逃してしまっている。

 さまざまな宗教的・文化的要素のブレンディングが顕著な宗教的動向であることは種々の世論調査からも明らかになっている。「多くのアメリカ人は複数の信仰を混ぜ合わせている」と題した2009年のピュー研究所の世論調査の結果*4によると、死者と最近交流した経験があると答えたのは回答者の29%、樹木などの物体に霊的なエネルギーがあると答えたのは26%、占星術の情報が参考になると考えるのは25%、輪廻転生を信じるのは24%という結果が出ている。全体としては、回答者のうち65%が、こうした超自然的な現象のうち少なくとも一つに対する信仰や経験があるという。

 具体例として興味深いのは、輪廻転生に対する信仰だ。1970年代後半以降に取られた各種調査では、輪廻転生を信じるアメリカ人の割合は、最低で19%(1990年代初期)、最高で40%(2003年)という結果が出ている。輪廻転生を公式の教義とする仏教徒ヒンドゥー教徒は総人口の1-2%程度でしかないことを考えると、19%でもかなり多い。

 宗教的ブレンドの二つの顕著な流れ:折衷的で革新的なネオペイガン・ニューエイジにくわえ、シナゴーグで禅を活用する保守派ユダヤ教のラビ、超常現象に対する信仰とユング心理学を組み合わせる長老派の女性の聖書読書会といったケースにおいて、宗教とは、信念・教義の一貫した不変の体系ではなく、個人や社会をめぐる状況の変化に応じて個人が取り出すことのできるアイテムのレパートリーであり、変化し続ける実践と思想のアマルガムなのだ。

結論

 以上見てきたように、日々の生活のなかでアメリカの人びとは固定的で変更の余地のない信念を信じているというよりも、自らに合うものを見つけるために(個々人が置かれた社会的状況によって限定はされているが)さまざまな宗教的・文化的要素をブレンドしている。しかし、それがどうした、だから何?という人もいるだろう。アメリカ宗教に関する入門講義のシラバスを見渡せば「ネイティヴ・アメリカンの宗教」「ローマ・カトリック教会」「ユダヤ教」「福音主義」といった宗教伝統が並び、それぞれの指導者、ピューリタンであればジョン・ウィンスロップ、ユダヤ教であればアイザック・メイアー・ワイズ*5が著したシッドゥールについて説明がなされる。しかし、アメリカ宗教の紹介はこうした宗教伝統にとどまるべきではない。同様に、宗教に関するさまざまな定義を単に羅列して終わるのではなく、定義には、世界に対する特定の見方を当然だと思わせる一方で、他の見方をないものとして思わせるはたらきがあることを批判的に問わなければならない。研究者や実践者が宗教と呼ぶ雑多なものを信念体系として狭く理解しようとしても、明らかになることより隠されてしまうことの方が多い。

*1:日本ではロバート・ベラーの著作のイメージが強い『心の習慣』の共著者でもある。

*2:エミール・デュルケーム『宗教生活の基本形態』山崎亮訳(ちくま学芸文庫, 2014年), p. 95.

*3:この論集の編者でもある。専門は宗教理論。

*4:Many Americans Mix Multiple Faiths | Pew Research Center

*5:アメリカにおけるユダヤ教改革派の草分け的存在。